「おや、これはどうもいらっしゃいませ、毎度有難うございます。
はあ、法事のお帰りで、
なるほど、それで見事な衣をお召しで……
それはどうも雨の中ご苦労様で……
えっ? 景気はどうかとおっしゃいますので……
いやあこれは参りましたなあ、
まあぼちぼちと言うところでございましょうか。
はあ、骨董ブーム?
おっしゃる通り昨今はそんなようなことで
大きな所は繁盛しているようですが、
私共のような小さな裏店ではそうもいかないようでして。
はあ、
ここに店を出してからどのくらいだとおっしゃいますので……
そうですなあ、もう二十年にもなりますか。
いえいえ、生まれはここではありませんで
もっとずっと田舎の方でございまして。
はあ、見慣れない物が置いてある?
どれでございます?
ああそれでしたか。
いやあ、これはまた妙な物がお目に留まりましたなあ。
それが御僧侶の目に留まりましたとは……
これはもう因縁としか言い様がありませんで。
実を申し上げますと、
その万年筆には不思議な話がございまして……
はあ、それは何だとおっしゃいますので……
はあ……はあ……
はい、はい、左様でございますか。
分かりました。
それではまあどうぞこちらへお掛け下さいませ。
粗茶ではありますが今お茶でもお入れ致しましょう。
本当に良く降りますなあ。
今年はまたやけに雨が多いようで……
こう雨が続きますとさっぱりいけませんで……
それに軸物の管理にも気を遣わなければなりませんで。
ところで、これまで何度かお見えになって頂いておりますのに、
迂闊にもまだどこのお方かも存じませんで……
はあ、最近この近くのお寺へ御住職として……
はあ、左様でございましたか、あのお寺へ……
はい、檀家ではありませんが良く存じております。
はあ、そんなことはどうでも良いから早く話を……
いやこれはどうも失礼致しました。
その品は、つい一週間ほど前に
ある方がお持ちになったものなのですが、
ご覧の通りメーカーはウォーターマンでして、
普及品で差ほど珍しい物ではございません。
また、製造は一九六十年代の前半と言うところでしょうか……
ですので、 別段これも
取り立ててどうこう言うようなことではありませんし、
それに、おそらく当人のものと思われる
イニシャルも入っております。
そんなことから一旦はお断り申し上げたのですが、
その方のお顔に、それはもう必死な感じがありまして……
これは何かあるのではと
生来の物好きが顔を出しましたものですから、
そこでまあ、買い上げることを条件に、
嫌がるのを強引に聞き出したと言う訳でございまして。
はい、それはもう不思議な話で……
おや?
失礼ですが、今衣の下からチラッと見えました
その手首の傷はどうなさいましたので……
ちょっと見ただけでも
かなり古いもののようにお見受けしましたが……
ほう、若い頃犬に噛まれて……
左様で……犬に……それはご災難で……
これはどうも余計なことを伺いまして、失礼致しました。
さて、その不思議な話と申しますのは
こう言うことなのでございます。
これをお持ちになった方は、
これもまたある友人から譲り受けたらしいのですが、
その日から恐ろしい夢を見るようになったのだそうです。
いえ、正確に言えばその日からと言うより、
その月からと言った方が良いでしょう。
と申しますのは、
その夢を見るのは毎月一度だけなのだそうで……
それがもう半年も続いているのだそうでして。
初めはたまたま
ただ恐ろしい夢を見ただけだと思っていたらしいのですが、
それが月に一度は必ず見るようになり、
またいつもまったく同じ夢なのだそうでございます。
はあ、そこまででも随分と気味が悪い話なのですが……
ある日もっと恐ろしい事実に気が付いたのだそうでございます。
何だと思われます?
お分かりにならない?
あっ、気が付きませんで……湯呑みが空になっております。
もう一杯お入れ致しましょう。
えっ?要らないとおっしゃる……
はあ、それより早く続きを……
では、私だけ失礼してもう一杯頂くことに致しましょう。
どうも私は喉を湿さないと話がうまく出来ませんもので……
はい、その恐ろしい事実と申しますのは……
何と夢を見る日が決まっているのだそうでございます。
はい、左様で……
はい、毎月必ず同じ日なのだそうで……
こうなると、とてもそのまま持ってなどはいられません。
そこで、譲ってくれた友人に訳を話して、
返してしまおうと考えたそうなのですが、
何度連絡してもどこへ行ったのか
さっぱり行方が分からないのだそうでして……
まあそこで、
ともかく手元から離してしまおうと思ったと言う訳でございますなあ。
はあ、その夢の内容で? ……
はい、勿論伺いました。
いえ、まだその夢を私自身が見たことはないのです。
と申しますのも、
まだその日になっていないのでございまして……
はい、実はそれが今日なのでして……
はい、左様です、三日なのでございます。
先ほど私が因縁と申し上げたのはこのことでございます。
おや?
どうなされました?
何だか少しお顔の色がお悪いようで……
はあ、何でもない……
はあ、昨日から少し風邪気味で……
左様で……
ひどくなると大変ですので、
この続きはまた後日と致しましょうか……
えっ?
私さえ良ければかまわないとおっしゃいますので……
はい、私の方は一向にかまわないのでして。
ご覧のように閑古鳥が鳴いておりますようなことで……」
・・・・・・・・・・
寺に戻った鷲宮仁海は、
経机の前にあぐらをかいてじっと考え込んでいた。
もうどれくらいそうしているだろうか……
大きく開け放たれた障子の向こうにはすでに濃い夕闇が迫り、
室内からの灯りが
手入れの行き届いた庭に降り注ぐ雨の粒を映し出していた。
経机の上には
先ほど骨董屋から買い戻してきた万年筆が置いてある。
仁海の手を離れてかれこれ三十三年が経つその万年筆は、
その長い歳月にもかかわらず、
重みのある黒いボディーを部屋の灯りに鈍く光らせている。
少し傷が付いたようにも見えるが、
イニシャルのKの金文字もはっきりと見てとれる。
「熊谷登」
と言うのが鷲宮仁海の本名であった。
その万年筆は、仁海が医大に入学したとき
お祝いに彼の父親がプレゼントしてくれたものであった。
世界で初めて毛細管現象を利用した
ウォーターマンの偉業にあやかれるようにと、
父親がわざわざこの万年筆を選んでくれたのだ。
それにしても……誰が……それにあの夢は……
次々と湧き上がる疑問は、
仁海の日ごろ明晰な脳ばかりではなく、
耳と言わず目と言わず、
今や彼の全器官組織を支配していた。
そのため、
普段は病的とも言えるほどの虫嫌いであるのだが、
雨を避けてか灯りを求めてか
庭から入り込んだ大小様々な虫たちが、
仁海の頭の上に吊るされている丸い蛍光灯に、
ブンブンとうるさい羽音を立てているのにも
まったく気が付かない程であった。
あのとき落としたことは分かっているのだ。
あのとき……
大学三年生だったあの夏の日……
昭和四十六年八月三日……午後二時頃だった。
頭の上には容赦なくじりじりと照りつける太陽があった。
そのうだるような暑さの中で、
登はある神社の物陰に呆然として立っていた。
その左の手首からは真っ赤な鮮血がしたたり落ちていた。
血のにおいが呼んだのか、
そこら一面に無数の虫が集まってきていた。
登はその虫達に襲われるのではないかと言う気がして戦慄した。
『そうだ、あのとき落としたのだ……』
仁海はもう一度確認するように呟いた。
これだけは間違いないことであった。
そしてそれを誰かが拾ったのだ。
これもまた他に考えようがない事実である。
問題はその誰かだ。
おそらく警察ではないだろう。
警察だとしたら……
これだけ特徴のある万年筆から
持ち主を割り出せないはずはない。
メーカーも珍しいし、当時としては高価でもあり、
そう多く出回っていたとも思えない。
それに、何と言ってもこのイニシャルだ。
また、そのような報道もなかったように思う。
第一警察が入手していたとしたら……
いくら時間が経っているとは言え、
市中に出回ることなどは考えにくい。
では、警察でないとすれば……
警察が見つける前に誰かが拾ったと言うことか……
だったら何故警察に届けなかった? ……
少なくともあの近くに落ちていたはずである。
単なる落し物だとでも思ったのか……
だが、そうだとしても
新聞にあれだけ大きく報道されたのだから、
関連があると思うのが当然である。
しかし……実際には警察には届けていない……
何故だ? ……
珍しい万年筆だから欲しくなったのか……
あるいは……
新聞やニュースなどには興味のない子供が拾ったのか……
だがそうなると……
親がそれをいつまでも知らないということはあるまい。
子供と言うものは
こんな物を拾えば必ず書いて遊んでみたくなるものだ。
それに……
万年筆の状態にも腑に落ちないことがある。
あまりにも保存状態が良すぎるのだ。
普段使用していたらもっと汚れ傷ついていても不思議はない。
それが、まるでどこかにしまってあったかのように見える。
インクはすでに蒸発してしまっているし、
スポイトの状態を見ると長いこと注入されていないことが分かる。
しかもまだ充分使用できる状態にあるのにもかかわらずだ。
つまり、
当時から拾った者がそうだったかどうかは別にして、
少なくともここ数年の持ち主は、
使用する目的で所持していたのではないと言うことになる。
では何のために……コレクターか? ……いや、それはあるまい。
メーカーこそ珍しいが、ありふれた物だ。
所持していて価値が上がるような物ではない。
それに……
あの話が本当ならば
この万年筆には怪しい現象が起こると言うではないか。
本当ならば……本当なら? ……
待てよ……
仁海はふと骨董屋の主人が
自分の手首の傷を気にしたことを思い出した。
何故あんなことを言い出した? ……
自分はまだ二三回ほどしかあの店には行っていない。
それほど親しく話をしたことはないのだ。
礼儀をわきまえない若者ならいざ知らず、
あのようにちゃんとした店の、 しかも、分別がなければおかしい年配の主人が、
訳もなく客の身体的なことを軽々しく口にするだろうか。
みたところそれなりに品もあり、
礼儀正しい老人に見えたのだが……
それに、そう思ってみれば、
妙に念押ししたような言い方をしたのも引っ掛かる。
何故だ? ……
まさか……
ここまで考えたとき、
ふとあることに思い当たって仁海は愕然となった。
そんなことがあるだろうか……
だが、そう仮定してみるとすべての謎が解けてくる。
まず何と言ってもあの夢の話だ。
自分は出家の身である。
あのような話は今までにも見聞きしたことはある。
物に霊魂が宿ると言うことがあるのも承知している。
しかし……
偶然にしても今度の場合はあまりにも出来すぎている。
夢の内容と言い、それを見るという日と言い、
まるで自分に当て付けたような話ではないか。
そう、
あの時以来、しばしば自分自身がうなされてきたものだ。
更にもう一つおかしなことが……
手元に置けないほどの
恐ろしい怪現象を起こす品物を、
例えそれがどんなに古く珍しい物であり、
またいくらかでも金が欲しかったとしても、
いきなり骨董屋へ持ち込む者がいるだろうか?
と言うことだ。
俗に言う後のたたりと言うこともある。
多くはそう言うことが恐ろしく、
まず寺や神社、あるいは霊能者と言われる者のところへ
持ち込むのが自然のはずだ。
その後のことはそこでの相談の結果と言うことになる。
百歩譲ったとしよう……
当人がどうしても
金が欲しかったと言うことであったにせよ、
そのような因縁付きの物だ。
わざわざ骨董屋が買い取るとも思えない。
しかも、この万年筆は別段特筆すべき物では決してない。
それが証拠には、
あの主人も一度は断ろうとしたと言ったではないか。
いや、あの主人の言葉を借りれば、
売りにきた男のただならぬ表情に興味があって
買い取ったと言うことになるが、
だからこそ余計不自然なのだ。
自分の個人的所有物にするのならともかく、
恐ろしい夢を見るようになったと聞いてなお、
通常の売り物として店に並べているのだ。
とても 常識ある骨董屋のすることとは思えない。
夢が本当なら、買った客に恐怖を与え兼ねないのだ。
そうなれば間違いなく店の信用問題になってくるはずだ。
信用第一の商売人が、
ことに古い物を扱う骨董屋なら
尚更そうしたことには慎重になってしかるべきではないのか。
そのような自殺行為をすることなど絶対にあり得ない。
では何故店に並べた? ……
その目的は一つしかないはずだ。
この俺に見せるために……
そして、あんな作り話をしたのだ。
そうだ、あの主人はあのときのことを知っている!
仁海は結論した。
おそらくこの考えは間違いないだろう。
何の目的かは分からないが、
自分の過去に迫ろうとしている意志があることは確かなようだった。
仁海はふーっと大きく頬を膨らませると
経机の鍵のかかった子引出しを開けて
奥から小さな発泡スチロールの箱を取り出した。
そのまましばらく手に持って何かじっと考えていたが、
やがて思い切ったようにテープをはがして蓋を開けると、
中に横たえてある小型の注射器と
アンプルらしい緑色をした容器を
そっとつまみ出して経机の上に置いた。
その瞬間、
仁海はかすかに身体が震えるのを意識した。
同時に急に肌寒さを感じて辺りを見回すと
庭に面した障子がまだ開け放たれたままになっている。
雨は上がっているようだったが、
そこから夜の冷気がどっと室内に入り込んでいた。
仁海は一つぶるっと身震いすると
はっと我に返ったような顔になって大きくかぶりを振った。
そして苦笑しながら障子を閉めるために立ち上がった。
・・・・・・・・・・
「おやっ、これはどうも鷲宮様で……
お待ちしておりました。
いえ、昨日お名前を伺いましたものですから……
どうも御僧侶では親しみが沸きませんもので……
はあ、この方が良いと? ……
はあ、しかし「様」はいらない? ……
いやあ、これはどうも恐れ入ります。
では、これからは遠慮なくそう呼ばせて頂きます。
はい、実はそろそろお見えになる頃だと思っておりました。
まあまあそう厳しいお顔をなさらないで……
はあ、夢などは見なかったと? ……
えっ、売りにきたという話も
あの夢の話も、
みんなでたらめだろうと? ……
いやあ、これは参りましたなあ。
左様で……
どうやらすべてばれてしまったようで……
はい、本当のところを申しますと、
実はばれてもらわないと返って私は困ったのでございます。
いえいえ、決して苦し紛れの言い訳ではありません。
ははは、怪訝なお顔をなさいましたな。
まあ無理もないことで……
何が何だか分からないと思われるのも当然でございます。
しかしです……
流石はやはり御出家でいらっしゃいまして……
店に入って来られたときからそう感じておりましたが、
そうして厳しいお顔を造ってはおられましても、
私を見る目に少しも怒気が伺えませんで……
むしろ面白がっておられるようにもお見受けしたのですが。
えっ、覚悟をしていらっしゃった? ……
これはまた……
どうやら何か勘違いをしておられますようですなあ。
ははは、また怪訝なお顔をなさった。
どれ、ではひとつ種明かしをすると致しましょうかな。
あっ、その前に店を閉めて参りましょう。
いえいえ、
もうこんな時間では誰も入っては来られませんで……
それにしても飽きもせずに良く降りますなあ。
夕べようやく上がったと思いましたのに
今日はまた朝からですからなあ。
はい、どうもお待たせ致しました。
こんな店でもそれなりの物も置いてございますので、
私が店にいるときでも
戸締りだけはしっかりしておきませんと。
まったく物騒な世の中になりましたもので……
もう欲しいとなったら腕ずく刃物ずくですからなあ。
昔は私共でさえ舌を巻くほどの
名人芸を発揮した泥棒がいたものですが。
はあ?
なるほど『私共でさえ』がおかしいと……
いやあこれはどうも……
つい口が滑ってしまいました。
まあ、後でお話の中で出てくることではありますが、
実は私は元警察におりましたようなことで……
まあまあ、そう驚かれては困りますなあ。
いずれにしてもこんなところで立ち話も出来ません。
今日は幸い家内も旅行で留守にしております。
まあどうぞこちらの部屋にお入り下さい。
おやっ? どういたしました?
ああ、その戸の鏡で……
ここは、私の居間でもあり、
まあ商談室でもありますのですが、
大事な仕事や商談の折には、
その戸を閉めることもままございますので、
そんなときにでも店の様子が見えますようにと、
マジックミラーにしてあるのですよ。
はあ、そんなことを他人に明かして良いのかと? ……
いえいえ、そんなことは鷲宮さん、
あなた御自身が良くご存知のはずで……
おや、やっとお笑いになられましたな。
はい、そうでなくてはいけません。
さあどうぞご遠慮なく。
いろんな本やら何やらが散らばっておりまして、
御寺のお居間と違い、落ち着かないかも知れませんが……
えっ良い部屋だとおっしゃる? ……
ご冗談をおっしゃっては困りますなあ。
はあ、骨董屋に相応しい? ……
なるほど、 そう言うことでしたら
そうかも知れませんなあ ははは。
さあどうぞそちらの座布団にお座り下さい。
さて、では何かお飲み物でも入れてきましょう。
昨日はお茶をお出ししましたが
本当のことを申しますと
私はコーヒーの方が好きでして……
どうですかな、コーヒーはお飲みになりますかな?
それとも何かお酒の類でも……
いやいや、どうぞご遠慮なさらずに……
はあ、ではコーヒーと言うことで……
コーヒーと言ってもインスタントですからなあ。
それにお砂糖もミルクもパックの物でして……
どうですかな、この町にはお慣れになられましたかな?
はあ、静かな良いところだと……
左様ですなあ、
言い換えれば発展しないと言うことになるのでしょうが、
まあ私共にはこうした静かな方が住みやすいですなあ。
さあコーヒーが入りました。
お砂糖もミルクもどうぞお好きなように……
さて鷲宮さん、
さぞ長いこと苦しんで来られたのでございましょう。
あっ、どうぞそのままお飲みになっていて下さい。
これから私が申し上げますお話は
すべて本当のことでございます。
えっ、昨日もそう言いながら嘘だった? ……
いやあ、これは参りましたなあ。
まあどうぞ勘弁して頂きまして……
まずこの写真を見て下さいますか。
この娘に覚えがおありになりますかな?
はあ、なかなか可愛い子だと……
はあ、それにかなり古い写真だと……
はあ、覚えがない? ……
まあもう少し良く見て下さいまし。
どうですかな、どこかで見られたことはありませんかな?
はあ、左様で……
首をかしげていらっしゃるところをお見受けすると、
どうやら覚えがないようですなあ。
まあそうでございましょうなあ……
もう三十年以上も前の話ですからなあ。
それに……
おそらくは一度見ただけでしょうからなあ。
おや、そのお顔は……
何か思い出されましたかな……
はあ、そう言われてみると……
ほう? どこかで見たような気がする……
左様で……
はい、では後は私が申しましょう。
その娘は
あのときあなたに助けて頂いた娘でございます。
どうなさいました?
おどろいたような
不思議なようなお顔をなさって……
驚きついでに申し上げれば、それは私の娘でございます。
いえいえ、からかっているなどとんでもない……
これはまったくの事実なのでして。
その写真はあの事件の数日前撮ったもので、
バックに写っているのは私の家でございます。
娘はその頃親元を離れて、
アパートで一人暮らしをしながら美大へ通っておりました。
あの事件が起きたのは
丁度夏休みで帰省していたときのことでした。
当時私は派出所の警官をしておりまして、
あの事件の日は
運良く非番で家にいたのでございました。
どこかへ出かけていると思っていた娘が、
まるで呆けたようになって戻ってきたのは
午後の二時頃だったでしょうか。
その表情や、
乱れた衣服に付いている草や砂から
私は娘の身に何が起きたのかを悟りました。
『どうした!?』
私がそう問いかけるのと同時に、
娘はハッと気が付いたように、
『お父さん! 早く……早くお宮へ……殺される! ……』
そう行ってその場に崩れました。
私は警察官です。
ただならぬ娘の言い様に
後のことを妻に任せて、
転がるように外へ飛び出しますと、
物置の自転車を引っ張り出すのももどかしく、
自分の足で全速力で神社へ向かって駆け出しました。
私の家から神社まではそう遠くはないのです。
途中猛スピードで走ってきた車に、
危うく撥ねられそうになりながら、
ようやく神社へ着いたときは
もう足がもつれて倒れそうでした。
考えてもみてください。
幾ら警察官だとは言えですよ……
もう四十二三になる男が
四五百mを全力で駆けたのですからなあ。
あんなに駆けたのは後にも先にもあのときだけですわ……
何と言っても平和な村でしたからなあ。
おっと、
話に夢中になって折角のコーヒーが冷めてしまうところでした。
ちょっと失礼して喉を湿させて頂きます。
おやおや鷲宮さん、
あなたのカップもほとんど減っておられませんようで……
まあそう緊張なさらないで下さいまし。
さて、神社へ着いてみますと、
参道の砂利道に点々と血痕が付いております。
私は慌てました。
それを辿って大急ぎで石段を昇ると
なおも血痕の続いている神社の裏側に回りました。
そこに何があったとお思いになられます? ……
はあ、男の死体……
はあ、石で頭を割られて……
やはり当然そう言うお答えになるでしょうなあ。
まあそれは置いておくと致しまして、
そこで私は二つの物を見付けたのです。
まず一つは、
鋭い鉤が付いた手鉤が一つ、
これはかなり使い込まれている感じを受けましたが、
その先端部分は新しい血で朱に染まっておりました。
もう一つは、
おそらく頭を殴ったと思われる
拳大よりもう少し大きめで、
一方が丸くとがった石でした。
手にとって見ますと、
その丸くとがった部分にわずかな毛髪と血液が
貼り付けたようにこびりついているのが確認できました。
直感的に私は娘が抵抗の末やったに違いないと思いました。
実は私はその男の顔に見覚えがあったのです。
婦女暴行の常習犯として
以前から指名手配されている男だったのです。
えっ? 誰がとおっしゃる? ……
いえ、その男がでございます。
咄嗟に私の気持ちは固まりました。
どんなことをしてでも
絶対に娘を助けなければならないと決心したのです。
私はすでに警察官ではなく
ただの一人の親に戻っていました。
はい、そう申しますのも
実は娘は生まれたときから片方の足が不自由でして、
そのため
幼い頃からいじめられ続けていたのです。
今でもそうしたいじめの話は良く耳にしますが、
昔はもっともっと
そう言う子供に対する偏見はひどかったのです。
ましてや封建的な土地柄でもありまして……
それはもう可哀想でございました。
中学校のときは特にひどく
後で聞きますと
本気で死のうと考えたこともあったようでした。
そんな娘がようやく明るくなってきたのは、
隣町の高校に入って二年生になった頃、
新任の美術の先生に
絵の才能を認められたことがきっかけでした。
幼い頃から家に閉じこもりがちでしたので、
確かに絵は良く描いておりましたが、
自分に絵の才能があるなどとは
娘本人もまったく思いもしなかったのでしょう。
それだけに喜びも大きく、
また先への希望も沸いてきたのではありますまいか。
いえ、大げさに申せば
生きる希望と言っても良いかも知れません。
そんなことから
美大へ入りたいと言い出した頃には、
いじめられ続けていた頃には感じたこともない
生き生きとした輝きさえ見せていたのでございました。
そのための勉強努力も
親の目から見ても涙が出るほどでして。
それと……
毎日のようにいじめられても、
それでも親に心配をかけまいとして
懸命に笑顔を作っていた娘の姿のいじらしさは、
そうした身体に生んだ親を恨むこともない
心の優しさとも相まって、
より私達夫婦の涙を誘ったのです。
……
いやあ、これはお恥ずかしい……
思い出しましたら
不覚にも涙が出てきてしまいまして……
おや? ……
これはどうも……
ハンケチをお出しになって……
はあ、はあ、
蒸し暑いので汗が……
左様で……
いやあこれは……
何よりも嬉しい汗でございまして……
はい、そんなようなことで、
私達家族にもやっと春がきたと思えたのです。
そんな中で起きた事件なのでございます。
果たして娘が実際に手を下したかどうかは定かではありませんが
男に何かされたことは間違いないのです。
もしこれがすべて公になれば
例え娘に罪がなくとも
間違いなく世間の白い目にさらされることは目に見えております。
今まで散々いわれのない迫害やいじめを受け、
ようやく笑顔と生きる希望を見つけたのでございますよ
一体そんな娘をどこの親が
再び地獄のような生活に戻そうとするでありましょうか
私が娘をかばおうと考えたのも
無理からぬことだと思って頂けるでしょう。
私はまず現場から娘の痕跡を消す作業にかかりました。
そうして、
何か娘が身に着けていた物はないかと
あちらこちらと目を走らせました。
すると、
少し離れた草むらにある物を発見したのです。
それは、
落としたと言うより
まるでそっと置かれた物のようにも見えました。
もうお気付きでございましょう、
左様です。
あの万年筆です。
私共のような田舎者には、
まるで聞いたことのないメーカーの物で、
しかもイニシャルまで入っております。
そこで私はこう考えました。
倒れている男の服装からして、
手鉤はこの男が持っていた物に違いないと。
しかし、
万年筆は、
その外見や手鉤からすると、
男の持ち物にしては
あまりにも似つかわしくありません。
誰か他の物が落としたと考えるのが自然でした。
それも極近い時間内にです。
と申しますのは、
実はその日の十二時頃
ほんの一時ではありましたが、
ここら一体に夕立があったのです。
ほほぅ、
頷いていらっしゃる……
なるほど……
それがです、
その夕立にも関わらず
万年筆にはそんな気配はありません。
勿論草に触れていた側には
はっきりと濡れた跡がありましたが、
上になっていた方は
何らの湿り気もないのです。
いえいえ、
いくら乾いたとは言え私も警察官です。
それくらいのことは分かりますので。
それに、
もしもっと以前に落としたのだとすると、
先ほども申し上げたように
私は派出所に勤務しております。
あれだけの万年筆です。
もし通常の落とし物だとしたら、
落とした当人から何らかの連絡があっても不思議はないのです。
はい、村に一つの派出所ですからなあ。
それが当日まで私はそれを確認しておりません。
娘が落としたとも考えられません。
イニシャルが違います。
そのときになって
私はようやく娘の言葉を思い出しました。
娘は確かに
『「早く……殺される」
と言ったのです。
もし娘がこの男をなぐったとしたら、
殺されると言うのは理屈に合いません。
しかも、早くなどと言うはずもないのです。
では、
それは誰のことを指すのでしょう?
誰が誰に殺されると言うのでしょう?
間違いなく娘は襲われたのです。
しかし
倒れているのは襲った男の方なのです。
……
私はなおも考えました。
娘の言葉には
「助けに行ってくれ」
確かにそんな響きがあった。
すると……
やはり誰かもう一人第三者がいたのではないか……
そう、この万年筆の持ち主が……
その誰かが娘を助けようとした? ……
そして……
この男と格闘になった? ……
男は手鉤を振り回す……
その誰かは必死で防戦する……
その結果……
男は逆に石で殴られた? ……
そうか……
あの手鉤の血は……
そうか……そう言うことか……
だが……
その者はどこへ行った? ……
生きているのか……
ふと私を撥ねそうになった車のことが頭に浮かびました。
私は大急ぎでもう一度辺りを歩き、
他には何も落ちていないのを確認すると、
万年筆だけをポケットにしまって
後の物はそのままに急いでそこを離れました。
帰りは決して人目に付かない必要がありました。
私は神社の裏からそのまま山道を抜けて、
大回りをして道路に出ると
さも別の方向から帰ってきたような顔をして家に戻りました。
はあ? ……
神社へ行ったときはどうだったかと? ……
はい、それは私も心配しておりました。
あの勢いでしたからなあ……
ところが、
これこそ天の助けと言うのでしょうか、
事件が明らかになった後でも、
誰一人私の姿を見たと言う者は現れなかったのです。
家に戻ってみますと、
娘はあまりのショックに顔色はまだ蒼白ではありましたが、
母親の介抱で大分落ち着いてはきているように見えました。
私が戻ったのを見て、娘はすぐに尋ねました
『あの人は? ……私を助けてくれたあの人は……』
私はこの言葉で、
自分が推測していたことが
ほぼ間違っていなかったと確認するのと同時に、
あの男を殴ったのは
やはり娘ではなかったのだと安堵しました。
こんなことを申しますと、
あなたには真に申し訳ないのですが、
それが正直な気持ちだったのです。
わたしは娘にその人は無事であることだけを伝え、
男のことは取り合えず伏せて
まず何が起きたのか事情を聞くことにしました。
男がどうなったかを知れば、あなたをかばって
本当のことを話さないと思ったのです。
いえ、初めから本署に連絡する積りはありませんでした。
私が第一発見者では色々と拙いことがありますので……
娘の話はこんなことでした。
友達の家に遊びに行っての帰り道、
神社の下まできてふと上を見ますと、
作業服を着たぼさぼさの髪の男が
手に何か棒のような物を持って、
石段を昇って行くのを見たのだそうです。
この辺りではあまり見かけないその風体に、
賽銭泥棒だと直感した娘は、
密かに後を附けたのです。
そして、
石段の上部まできてそっとのぞいて見ましたが誰もいません。
不思議に思って神社の裏へ回った途端、
いきなり誰かに後ろから首を絞められたのだそうで……
そのまま娘は気を失っていたのでしょう。
どのくらい過ぎた頃か、
男の争う声で
ふと意識を取り戻した娘が見たものは、
先ほどの男と格闘している見知らぬ青年の姿でした。
黄色いポロシャツにジーパン姿のその青年は
男から娘をかばう位置に立ち
早く逃げろと言うように、
盛んに手で合図を送ってくれたそうです。
ここから先のことは私より
あなたの方が良くご存知だと思いますので、
後はかいつまんでお話することに致しましょう。
合図に気が付いた娘は、
素早く身支度だけは整えはしましたが、
助けてくれた恩人をそのままに
自分だけ逃げることなどできなかったのでしょう。
はらはらしながら見守っていたのだそうです。
しかし……
幾度となく振り下ろされていた男の手鉤が、
ついに青年の手首に食い込んだのを見るに至って、
『このままでは殺されてしまう』
と急に気が付いて、
私に助けを求めに逃げてきたと言う訳です。
ところで……
ここでちょっと私の話はおいておきまして、
何故あなたがあそこにいらっしゃったのか
聞かせて頂けませんかな?
まるで初めての話でも聞くように、
目の前の老人の声に耳を傾けていた仁海は、
いきなりの質問に何か妙に戸惑ったようであったが、
すぐにそれでも恥ずかしそうな顔で話し始めた。
ほう、なるほど……
えっ? 医大の学生さんでしたので……
はあ、夏休みのご旅行を車であちこちと……
はあ、それであの村にも……
はあ、はあ……
はあ、急にお腹が痛くなられた? ……
それで車を降りて良い場所を探しに? ……
なるほど……
左様で……
いやあ、これはどうも申し訳ないことを致しまして……
まあそのおかげで
危ういところを助かったのでございますが……
あなたのお腹が痛くならなければ
実際娘もどうなっていたことやら……
さて、話を戻しますと、
娘の話を聞き終えた私は、現場で見たことを話し、
持ち帰った万年筆を見せて、
娘が落としたものではないことを確認しました。
そして
娘にあなたの似顔絵を書かせたのです。
当然娘は嫌がりました。
それはそうでしょう。
自分を助けてくれた恩人を
警察に売るようなことになるのですからなあ。
私は絶対に警察には見せないと約束して、
何とか嫌がる娘を説き伏せました。
その上で、
今度のことはなかったことだとして、
決して誰にも話してはいけないこと、
そうして早く忘れてしまうこと、
これだけをきつく戒めました。
勿論それは当然のことでした。
前に申しましたように私は娘を
この事件とは無関係にしようと決めていたのですから、
娘にしゃべられては何もなりませんし、
あなたが捕まっても困るのです。
それに、
娘を助けて下さったあなたは
私にとってもやはり恩人なのです。
では何故似顔絵を書かせたか……
これもまた妙な話なのですが、
そうは思いながらも、
長年の習性と言うのでしょうか、
あるいは警察官の業とも言えるかも知れませんが、
唯一の目撃者であるということで、
取り合えず書かさずにはおられなかったと言うことでしょうか……
まあ、図らずもそれが今回役に立ったのではありますが。
結局あの男の死体が発見されましたのは、
次の日の朝でした。
まあそれも頷ける話でして、
暑い夏の午後にわざわざ参詣する者もおりませんで……
当然村は引っ繰り返るような騒ぎになりました。
私も一人の警察官として、
嫌、私の勤務する管内での事件ですからなあ、
本署の刑事達の案内やら説明やらで、
中心的と言っても良いほどの忙しさでした。
男が男ですからなあ、
捜査本部の見方も
やはり女性を襲って返り討ちにあったとみて、
その線で聞き込みをして回りましたが、
皆目これと言う情報は出て参りませんでした。
それで、
喧嘩か何かで殺されたのだろう……
と言うことに切り換わりはしましたが、
結局犯人は分からないまま捜査本部は解散致しました。
まあ、指名手配中の者でもありますし、
刑事連中もそう力が入らなかったのではありますまいか。
私が安堵の胸を撫で下ろしたのは言うまでもありません。
どうも肝腎の種明かしの前に
随分と前置きが長くなってしまいました。
お疲れにはなっていらっしゃいませんか?
はあ、お勤めで慣れていらっしゃる……
まあ、そうではありましょうが……
後もう少しです。
どうぞ気楽に膝を崩してお聞き下さいませ。
私はそれからすぐに警察を辞めました。
いくら娘を救うためとは言え、
警察官にあるまじきことをしたのですから、
あのまま奉職していることは
私の心が許さなかったのです。
丁度以前から、骨董屋をやっている友人に、
店を手伝ってくれないかと誘われていたこともありまして、
まあ渡りに船だったと言う訳です。
そこで十五年ほど修行しまして
二十年前にここに店を出したのです。
はあ? 何故この町かと? ……
はい、ここは家内の産まれ故郷なのでして。
娘の方はと申しますと、
無事美大を卒業した後、
ある画廊に勤めながら絵の勉強をしておりました。
しかしまあ、絵の方は伸びませんでしたようで、
そちらの方はすっかりあきらめまして
画廊の勤めだけしておりましたところ、
幸いそこで良い方と巡り合うことができまして、
二人の子供にも恵まれ、
ずっと幸せに暮らしていたのですが……
実は……
半年前に亡くなったのでございます。
はい、子宮癌でした。
はい、ありがとうございます。
あなたにそうおっしゃって頂けて
さぞ娘も喜んでいることでありましょう。
娘は亡くなるまで
本当にあなたに会いたがっておりました。
あのときあなたに助けて頂かなかったら、
今の自分はなかったと口癖のように申しておりました。
そして……
自分を助けた為に、
あなたの人生を狂わせてしまったのではないかと
それはもう気にかけていたのでございます。
いえ、娘ばかりではありません。
私も何とかあなたにお会いして
是非無事なお顔を拝見したいと念願しておりました。
それと申しますのは、
お礼を申し上げたいのは勿論ですが、
これとは別に、
どうしてもあなたのお耳に入れておかなければならない
重大なお話があったのでございます。
しかし、探しようもありませんでした。
結局娘は
あなたにお会いできなかったことを唯一の心残りとして亡くなりました。
そうして三ヶ月前のことでした。
ふらりと店に入って来られた御僧侶のお顔に、
かつて見覚えのあるホクロを発見したのです。
それは、あの似顔絵にあったものと、
大きさと言い位置と言いそっくりそのままだったのです。
はい、あなたのその顎のホクロです。
いえ、決して忘れる道理がないのです。
私はその似顔絵を額に入れて、
家の居間に掛け、いつも手を合わせていたのです。
私はそっと席を離れてその居間に入り、
似顔絵に向かうと確認するように見入りました。
見れば見るほど輪郭はそっくりです。
そして、頭の中で
その顔に眼鏡をかけ、頭をまるめ、
全体に少し肉を付けてみました。
するとどうでしょう。
そこにあったのは紛れもなく
今店におられる御僧侶のお顔だったのです。
そのときの私の驚きと喜びは
いかばかりであったことか……
これぞ娘の導きでなくて何でありましょう。
しかしです。
これはあくまでも私の主観です。
このことだけで
仮にもご出家の身に対して、
過去にこういうことがなかったかなどとは
とてものこと聞ける訳がありません。
おいそれと他人に言える話ではないのです。
私は考えました。
衣姿のお身なりからして、
そう遠くの方ではあるまいと。
また骨董をご覧になるご様子からみて、
必ずまたおいでになるに違いないと。
はやる気持ちを抑えて私はその可能性に賭けました。
案の定あなたはまたおいで下さいました。
私は注意深くあなたを観察させて頂きました。
そして……
あなたが高いところの物に手を伸ばされたとき、
ついに決定的とも言える手首の傷を見付けたのです。
それでもです……
いきなり話を切り出して
知らないとおっしゃられたらそれまでです。
事が事だけにその可能性は大きいと感じました。
それで、あくまでも慎重にことを運ぶ必要がありました。
そこで私は、
あなたの方から行動を起こして頂けるよう
一計を案じました。
まず、あなたが良くご覧になられる
硯や墨などが並んでいる棚に、
保管して置いたあの万年筆をイニシャルが見えるように置き、
次に、私が見た現場の様子と娘から聞いた話を基にして
あのような因縁話のストーリーを創作しました。
もしあなたが万年筆に興味を示されたら、
すかさずその話をするつもりでした。
この作戦はずばり的中致しました。
後は、万年筆の因縁話に引っ掛けた私の謎を、
あなたが解いてくれるのを待つだけでした。
えっ? 興味を示さなかったらどうしたかと? ……
はあ、それに謎を解いても知らぬ顔をしていたら? ……
そのときは仕方ありませんので、
あの似顔絵を持ってお寺まで押しかけるつもりでいました。
はあ? 何故礼が言いたいだけにそこまでと? ……
はい、それがただ今申し上げました
「お耳に入れたい重大なお話」と言うことでございます。
そのまえに、
その後あなたがどうなされておいでだったか
お聞かせ頂けないでしょうか?
えっ? 医大をお辞めになって? ……
はあ、仏教大学へ……
はあ、左様で……
あのー、それは……
あの事件がそうさせたと言うことでございましょうか? ……
はあ……
そうではない……
元々医者には向いてなかったと……
だから? ……
あのことは? ……
単なるきっかけに過ぎなかったと……
それは、本当のことでございますか?
はあ、はあ……
左様で……
もしそれが本当でございましたら
そのことにおきましては、
私共の気持ちもどんなに軽くなるでございましょう。
……
はい、その重大なお話と申しますのは……
これは実は娘も知らない私だけの秘密でございますが、
これをあなたにお話しない内は
死んでも死に切れないと思っておりました。
はい、驚かないようにお聞き下さいませ。
実は……
あの男を殺したのは私なのです。
まあ、まあお聞き下さい。
私がこのお話の前段で男が殺されていたとは申さずに、
倒れていたと申し上げたのはこのためなのです。
それは確かに頭から血を流して倒れてはいましたが、
決して死んではいなかったのです。
いえいえ、本当なのでございます。
動かない男を見て
私も初めはてっきり死んでいるものと思っておりましたが、
倒れている男を背に
凶器と思われる石を調べているときでした。
ふいにその背後で呻き声を聞いたのです。
驚いて振り向きますと、
男が上半身を起こしかけているところでした。
私が振り向いたと知ると男は、
「助けてくれ……医者に……」
そう言ったようでした。
それを見たとき、
私の中の憎悪に火がつきました。
更にこの男が助かって
しゃべられたら拙いという思いもありました。
気がついたときは
私は持っていた石を
男の頭に力一杯振り下ろしていたのです。
男が再び立ち上がることはありませんでした。
お解りになりましたでしょうか……
あなたが殺したのではないのです。
あの男は私が殺したのです。
ですから、
あなたが苦しむことは何もないのでございます。
私はこの事実を一刻も早く
何とかあなたに伝えなければと焦りました。
人助けだったとは言え、
さぞや苦しんでおられるであろうことを考えますと、
もう居ても立ってもおられない思いでした。
しかし、そのすべがありません。
卑怯な奴だとお笑い下さいませ。
だからと申して
私は真実を警察に言うこともできなかったのです。
そうしてついに今日に至ってしまったのでございました。
鷲宮さん……
私があなたをお探ししていた本当の理由は、
この事実をあなたにお話して
心よりお詫び申し上げることでした。
本当に申し訳ないことをしてしまいました。
この通りでございます……」
思いがけない話の内容に、
畳に手をつき深々と頭を下げている
枯れた老人の姿をじっと見ながら
仁海の心は激しく動揺していた。
仁海には分かっていた。
この最後の告白は嘘であると……
まだ学生の身であったとは言え、
医学の道を学んでいた仁海に、
強烈な石の打撃による脳の損傷が、
人間の身体にどれほどの影響を及ぼすものか
分からないはずはなかった。
即死ではなかったにせよ、
起き上がることなどできるはずがないことは
それを実行した仁海本人が一番良く理解していることだった。
おそらく
愛する我が子を助けてくれた青年への
せめてもの恩返しに考え付いた嘘に違いなかった。
その老人の恩情が心に沁みれば沁みるほど
仁海はいたたまれない思いでいっぱいになっていた。
昨夜、一瞬のことであったとは言え
出家にあるまじき考えを起こしかけた心が許せなかった。
そのえぐられるような慙愧の念と震えるような感動とが
あの日以来ずっと持ち続けてきた自責の念に重なって
更に大きな濁流となって仁海の全身を呑み込んでいた。
『違うのです!……あなたは間違っている!……』
仁海は心の中で叫んでいた。
何もかもが反対だった。
己を恥じて出家したのもその為だった。
あの日……
登は父親と医大を辞める辞めないで口論となって
そのイライラを紛らわそうと車で家を出た。
どこへ行こうというあてがあった訳ではなかった。
あの村に着いたとき急に激しい雨が降ってきた。
その雨が登の気持ちをより荒くした。
フロントガラスを叩く音が
父親の怒りの声と重なっていた。
雨はすぐに上がったが
一旦荒くなった心は鎮まらなかった。
登は車を木陰に停めると外に出て歩き出した。
ふと若い娘が神社の方へ行くのが見えた。
登の心に魔が差した。
そうなのだ……
話はすべて逆なのだ……
あの男の方が邪魔に入ったのだ……
それが……
まさか婦女暴行の常習犯だったとは……
あのとき娘に手を振ったのも
逃げろと言う事ではなかった。
あのような状況下でも
生来の虫嫌いから
背後にまとわりついてくる虫が恐ろしく、
夢中で払っただけなのだ。
何と言う偶然、
何と言う勘違いであろうか……
憎まれるべきは仁海であった。
叩き潰されるべき頭は別にあった。
怒りと憎悪の対象にされこそすれ
恩義を感じて貰う筋合いなどは決してないのだ。
しかし、
何と言うことか。
偶然と誤解が
逆に仁海を恩人にしてしまっていた。
仁海は何も知らずに頭を下げ続けている老人の手を取った。
温かい手だった。
一気にこらえていた熱いものがこみ上げてきて
仁海の瞼を濡らした。
『許して下さい……』
声にはならなかった。
大粒の涙だけが頬を伝った。
仁海はテーブルの上の少女の写真に目をやった。
少女はうっすらと笑みを浮かべていた。
まるで、二人のやりとりを静かに見守っているかのように。 |